縛られたい、踏まれたい、罵られたい。自分を低く置き、相手に明け渡したときにだけ立ち上がってくる興奮がある。痛みや屈辱が快感に転じるこの逆説を、人はマゾヒズムと呼んできた。名づけたのは一人の精神科医であり、名前を貸したのは一人の小説家だった。
マゾヒズム(まぞひずむ、英: masochism)とは、苦痛・屈辱・拘束・支配されることに性的な快感を結びつける嗜好を指す。能動的に苦痛を与える側のサディズムと対をなす概念であり、両者をあわせてSM(サドマゾヒズム)と総称する。
概要
マゾヒズムの核心は、自らが受け身の側に立ち、痛み・羞恥・無力化を引き受けることに快感を見いだす点にある。物理的な打擲や緊縛による拘束のような身体的苦痛から、罵倒・命令・支配といった精神的な屈服まで、その対象は幅広い。重要なのは行為の激しさそのものではなく、「相手に委ね、支配される」という関係の構図に快感が生じることである。
マゾヒズム的な傾向を持つ者はM(エム)と俗称され、性別に応じてM男・M女と呼び分けられる。日本のSM文化では、責める側を S(サド)、責められる側を M(マゾ)とする略号が広く定着している。
語の起源
「マゾヒズム」の語は、オーストリアの精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングが、1886 年の著作『性的精神病理(Psychopathia Sexualis)』のなかで命名した。クラフト=エビングは同書で 238 例の症例を「性的異常」として分類し、その際に「サディズム」と「マゾヒズム」という二つの用語を初めて用いた。
マゾヒズムの語源となったのは、オーストリアの作家レオポルト・フォン・ザッヘル=マゾッホ(Leopold von Sacher-Masoch)である。彼の代表作『毛皮を着たヴィーナス』(1870 年)は、美しい女性に隷属することを望む男を主人公とした小説で、被虐的な性愛を文学的に描き出していた。クラフト=エビングは、文学・歴史上の人物名から病態を命名する手法をとっており、サディズムの語をマルキ・ド・サドから採ったのと同様に、マゾヒズムの語をザッヘル=マゾッホから採った。
精神医学上の位置づけの変遷
クラフト=エビングがマゾヒズムを病理として記述して以降、長らく精神医学はこれを治療対象の倒錯(パラフィリア)として扱ってきた。だが 20 世紀後半以降、合意にもとづく性的嗜好を一律に病理とみなす枠組みは大きく見直された。
アメリカ精神医学会の診断基準 DSM では、版を重ねるごとにこの転換が反映されている。現行の DSM-5(2013 年)では、苦痛を伴う性的嗜好そのものは障害とされず、当人に著しい苦痛や機能障害をもたらす場合、あるいは合意のない相手に対して実行される場合に限って「性的マゾヒズム症」として臨床的問題と位置づけられる。言い換えれば、本人が苦しまず、合意の範囲で営まれる限り、マゾヒズムは病ではなく性的指向の多様性のひとつとして扱われるようになった。
受容心理
マゾヒズムの快感は、しばしば「責任からの解放」として説明される。決定権と主導権を相手に明け渡すことで、日常の自我や社会的役割を一時的に手放し、ただ受け身の存在になりきる。社会的地位の高い人物がプライベートで激しい被虐を求める例がしばしば語られるのは、この「明け渡し」の快感が、ふだん負っている責任の重さと表裏をなすためだと論じられる要出典。
苦痛そのものが快感に転じる機構については、強い刺激に対して分泌される内因性の鎮痛物質(エンドルフィン等)の関与も指摘される。痛みと快感の神経経路の重なりが、被虐的興奮の生理的基盤の一部をなすという見方である。
成人向け表現におけるマゾヒズムは、緊縛・調教・言葉責めといったテーマを通じて、安定した一大ジャンルを形成してきた。被虐側の表情・反応に焦点を当てる演出は、「支配されることの快楽」を観る側に追体験させる構造を持つ。ただし現実のSM実践では、安全・合意・後のケアを重視する規範(セーフ・サネ・コンセンシュアル等)が共有されており、フィクションの誇張された描写と実践とは区別される。
関連項目
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参考文献
- 『Psychopathia Sexualis』 (1886)
- 『毛皮を着たヴィーナス』 河出文庫 (2018)
- 『Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders (DSM-5)』 American Psychiatric Publishing (2013)
別名
- マゾ
- マゾヒスト
- 被虐性愛
- masochism