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学校の更衣室で、同級生たちが芸能人の話題で盛り上がる。「あの俳優ってかっこいい」「あの女優ってきれい」、誰々が好きだ嫌いだ。一人の少女は、その輪に入れない。誰の顔を見ても、特に何も感じない。学校の保健の授業で「思春期になれば異性に興味が出る」と聞いていたが、自分の中にその「興味」が現れる気配がない。20 代になっても 30 代になっても、状況は変わらない。「私は他の人と何かが違う」。長くこの違和感の正体が分からなかった彼女が、ある日インターネットで「asexual」という英語を見つける。そこにあったのは、自分と同じ感覚を共有する人々のコミュニティだった。

アセクシュアル(asexual、無性愛)とは、他者に対して性的引力(sexual attraction)を感じない、あるいはほとんど感じない性的指向を指す英語起源の語である。略称「エース」(ace)も英語圏当事者間で広く運用される。LGBTQ+ の枠組内で、ゲイレズビアンバイセクシュアルトランスジェンダー等と並ぶ独立した性的指向カテゴリとして位置づけられる。本項では概念の定義、AVEN の登場、グレースペクトラム、隣接概念、当事者の社会的経験を扱う。

概念の定義

アセクシュアルの中核的定義は、「他者に対する性的引力の不在または極度の希薄さ」である。重要な点として、アセクシュアルは以下とは区別される:(1) 禁欲(celibacy、性的活動を意図的に控える状態)、(2) 性嫌悪(sex aversion、性に対する嫌悪感)、(3) 性欲の不在(性的興奮自体が起こらない状態)、(4) 性機能障害。

アセクシュアル当事者の中には、自分の身体に対する性的反応(sexual desire)を持ちつつ、特定の他者に対する引力を感じない者がいる。性欲そのものは存在しても、それが特定の他者に向く方向性を持たない、という性的指向の特殊なあり方として定義される。

「ロマンチック・オリエンテーション」(恋愛的指向、romantic orientation)と「セクシュアル・オリエンテーション」(性的指向)を分離して捉える理論枠組では、アセクシュアル当事者の中に、(1) ロマンチックな引力を異性・同性に感じる者(ヘテロロマンチック・アセクシュアル、ホモロマンチック・アセクシュアル等)、(2) ロマンチックな引力も感じない者(アロマンチック・アセクシュアル、aromantic asexual)、が共存する複層構造が記述される。

AVEN と当事者運動の組織化

「アセクシュアル」の語が当事者の自己呼称として体系的に運用されるようになったのは、2001 年の「Asexual Visibility and Education Network」(AVEN、エイヴン)設立以降である。米国・カリフォルニア州在住のデイヴィッド・ジェイ(David Jay)が創設した AVEN は、(1) 当事者の交流フォーラム、(2) アセクシュアル概念の普及、(3) 学術研究との連携、を活動の柱とし、世界規模のアセクシュアル運動の中核的存在となった。

AVEN によるアセクシュアルの定義「someone who does not experience sexual attraction」は、英語圏当事者運動の標準として広く引用される。同団体のフォーラムを通じて、当事者間で「ace」「demi」「gray-A」「allo(性的引力を感じる人々を指す)」など独自語彙が発達し、それが英語圏 LGBTQ+ 運動全体に流入する形で広まった。

学術研究の側でも、Anthony F. Bogaert『Understanding Asexuality』(2012)、Julie Sondra Decker『The Invisible Orientation』(2014)などが、当事者運動と並行してアセクシュアル概念の理論的整備を進めた。Bogaert の英国成人 1 万 8 千人調査(2004 発表)は、アセクシュアル当事者が成人人の約 1% を占めるとの推計を示し、以降の研究に頻繁に引用される基礎数値となった。

グレースペクトラム

アセクシュアル概念は、単一の固定的カテゴリではなく、連続的な「アセクシュアル・スペクトラム」(asexual spectrum)として運用される傾向がある。スペクトラム内部の主要な区分として、以下が広く運用されている。

グレーセクシュアル(gray-asexual、グレー A)

「滅多に性的引力を感じない」「特殊な状況下でのみ性的引力を感じる」など、完全な無性愛ではないが、一般的な性的引力の経験量からは大きく逸脱する位置の者を指す。アセクシュアルとアロセクシュアル(性的引力を感じる人々)の中間的な位置として概念化される。

デミセクシュアル(demisexual)

「強い情緒的・人格的絆が成立した相手にのみ性的引力を感じる」者を指す。詳細は別項を参照されたい。デミセクシュアルはグレースペクトラム内の特定の位置を占めるカテゴリとして、独立した概念として運用される。

性的活動への態度の分類

アセクシュアル当事者の性的活動への態度は、(1) sex-favorable(性的活動に肯定的)、(2) sex-neutral(性的活動に中立)、(3) sex-averse(性的活動を避けたい)、(4) sex-repulsed(性的活動に強い嫌悪感)、と多様に分布する。当事者の中にも性的活動を持つ者と全く持たない者が混在し、性的指向としてのアセクシュアル概念は、性的行動とは独立に定義される。

隣接概念との関係

バイセクシュアルパンセクシュアル・ゲイ・レズビアン等の他の性的指向カテゴリと比較すると、アセクシュアルは「指向の対象がない」点で性質が異なる。LGBTQ+ の枠組に位置づけることへの内部的議論も継続しており、「LGBTQIA+」「LGBTQA+」のように略称に「A」(アセクシュアル)を含める表記が、一部当事者運動で採用されている。

当事者の社会的経験

アセクシュアル当事者が経験する社会的困難として、以下が報告されている:(1) 性的指向としての可視化の遅れ、(2) 「経験不足」「未熟」と病理化される偏見、(3) 「治療すれば直る」と医療的介入を求められる経験、(4) 親密関係において相手の性的期待に応えられない葛藤、(5) アセクシュアル当事者を主題とする文化作品・教育資料の不足。

日本における可視化は 2010 年代後半以降に本格化した。三宅大二郎『アセクシュアルって何?』(2024)、村中直人ら当事者団体・自助グループによる啓発活動、メディアでの当事者の語りの掲載などを経て、認知が徐々に広がっている。

関連項目

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参考文献

  1. Bogaert, Anthony F. 『Understanding Asexuality』 Rowman & Littlefield (2012)
  2. Decker, Julie Sondra 『The Invisible Orientation: An Introduction to Asexuality』 Skyhorse Publishing (2014)
  3. 『Asexual Visibility and Education Network (AVEN)』 AVEN https://www.asexuality.org/
  4. 三宅大二郎 『アセクシュアルって何?』 明石書店 (2024)

別名

  • アセクシュアル
  • アセクシャル
  • asexual
  • エース
  • ace
  • 無性愛者
  • 無性愛
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