夕暮れの上野公園、忍ばずの池の周り。スーツ姿の男たちが、目線だけで合図を送り合う。一定の距離を保ちながらすれ違い、ふと立ち止まる。誰の目にも触れずに完結する黙劇が、戦後数十年にわたって日本の主要都市の片隅で繰り広げられてきた。
発展場(はってんば)文化とは、ゲイ男性が匿名的な性愛接触を行うために集う特定の都市空間、ならびにそれを取り巻く慣習体系を指す総称である。戦後の上野・新宿・新世界等の公園・公衆便所文化に発し、現代の発展サウナ・ハッテンビデオボックスに至るまで、日本のゲイ・サブカルチャーの一翼を成してきた領域である。本項では戦後日本における発展場の系譜、空間類型、コミュニティ機能、HIV/AIDS 危機との接続を扱う。
概要
発展場とは、ゲイ男性が匿名性を保ちながら性愛接触の機会を得るために集う特定の場所を指す業界用語である。「発展する」とは「相手と性愛接触に至る」ことを意味するゲイ用語で、「発展場」はこの動詞の場所名詞化として戦後に定着した要出典。匿名的な接触を可能にする空間的・時間的条件(人気が一定数あり、かつ第三者の通行が制御可能)が成立する場所が、自然発生的に発展場として機能する仕組みを持つ。
戦後日本において発展場として機能した代表的空間は、公園・公衆便所(初期)、銭湯・サウナ(中期)、専用ビデオボックス・専用サウナ(後期)である。各時期の空間類型は重なりながら徐々に変化し、現代では商業施設としての発展サウナ・ハッテンビデオボックスが主流となっている。
英語圏では cruising(クルージング)が対応する語で、特定の都市空間で同性愛男性が出会いを探す行為を指す。Cruising spot(クルージングスポット)は発展場の英語対応語である。世界各地のゲイコミュニティが類似の空間文化を発達させてきた事実は、Laud Humphreys『Tearoom Trade』(1970)等の社会学的研究で記述されている。
空間類型
公園型
戦後初期から 1980 年代まで、東京の主要公園(上野公園・新宿御苑・日比谷公園等)、大阪の天王寺公園・新世界、名古屋の鶴舞公園等が発展場として機能した。樹林・池・遊歩道といった視覚的遮蔽要素のある公園は、夜間に特定の動線が発展場として利用されてきた経緯を持つ要出典。
公衆便所型
公園内・駅構内・繁華街の公衆便所が、戦後の発展場の基本的構成要素となった。英語圏で cottage(英国)・tearoom(米国)と呼ばれる空間類型に対応し、Laud Humphreys『Tearoom Trade』(1970)が公衆便所での匿名同性愛接触の社会学的記述を行った代表文献である。日本では「便所族」という俗語が一時期流通した要出典。
銭湯・サウナ型
1970 年代以降、男性専用の銭湯・サウナが発展場として機能した。銭湯文化の中の特定店舗が「発展サウナ」「ゲイサウナ」として認知され、業界誌『薔薇族』『さぶ』等で情報共有された。新宿・上野・浅草等の特定店舗が、各時期に発展サウナとしての地位を保持した。
ビデオボックス型
1980 年代以降、ゲイ向けビデオボックス(ハッテンビデオボックス)が商業施設として登場した。個室での映像視聴を名目としつつ、客同士の匿名接触を可能にする空間設計を持つ業態として、現代まで継続している。新宿二丁目を中心に複数の店舗が営業を維持している要出典。
屋外型(都市の隙間)
公園以外にも、駐車場・河川敷・橋下・廃ビル等の都市の隙間空間が、自然発生的に発展場として機能した時期があった。これらは制度化されない自然発生的空間として、警察取締り・都市再開発・防犯カメラ設置等の影響を受けて変動してきた。
コミュニティ機能
発展場は単なる性愛接触の場ではなく、戦後日本のゲイ・コミュニティが情報共有・社会化を行う重要な空間でもあった。ゲイバー・新宿二丁目のような可視的なコミュニティ空間が制度化される前、または並行して、発展場は匿名性を保ちながらコミュニティに接続する入口として機能してきた要出典。
業界誌『薔薇族』(1971-2008)・『さぶ』『アドン』等は、発展場情報を継続的に掲載した。「ハッテン場ガイド」「全国発展場マップ」といった企画記事が、地方在住のゲイ男性に対する情報提供機能を果たしてきた。インターネット普及以降は出会い系アプリ(Grindr 等)が同様の機能を果たすようになったが、発展場文化は商業施設形態として現在も継続している。
HIV/AIDS 危機との接続
1980 年代後半から 1990 年代の HIV/AIDS 危機は、発展場文化に重大な影響を与えた。匿名的な不特定多数接触は HIV 伝播の高リスク行動として認知され、ゲイコミュニティ内部での予防教育・コンドーム使用推奨が大規模に展開された。同時期にゲイ向けビデオボックスでのコンドーム配布、検査受診の推奨等のハームリダクション施策が、コミュニティ団体・公衆衛生当局によって整備された要出典。
ゲイコミュニティ団体(動くゲイとレズビアンの会、ぷれいす東京等)は、発展場での啓発活動を継続的に行った。発展場が単に性愛接触の場であるだけでなく、公衆衛生介入の場としても機能してきた経緯は、戦後ゲイ史の重要な側面である。
法的・社会的位置
発展場での行為は、法的には公然わいせつ罪(刑法 174 条)に抵触しうるグレーゾーンに位置する。公衆便所・公園での行為は通行人の目撃可能性により公然性が認定される余地があり、警察取締りの対象となる事例が継続的に発生してきた。一方、商業施設としての発展サウナ・ハッテンビデオボックスは、私的空間での合意行為として、原則的に取締り対象外である。
社会的には、発展場文化は長らく可視化されないアンダーグラウンド領域として存在してきた。1990 年代以降の LGBTQ 運動の進展、新宿二丁目の可視化、メディアでのゲイ表象の増加に伴い、発展場文化も部分的に学術研究・ジャーナリズムの対象となった。Mark McLelland『Queer Japan from the Pacific War to the Internet Age』(2005)、伏見憲明『新宿二丁目』(2004)等の研究文献が、発展場文化を含む戦後日本ゲイ史を包括的に記述している。
受容心理
発展場文化の中核装置は、匿名性と即時性の組み合わせにある。日常的な社会的アイデンティティ(職業・家族・地位)を一時的に置き去りにできる空間として機能する点が、利用者にとっての解放装置として作用してきた要出典。同時に、発覚の不安・公衆衛生リスク・法的リスクといった負の側面も常に並走する空間でもある。
社会学的観点からは、発展場文化は同性愛が法的・社会的に可視化されてこなかった時代に、ゲイ男性が自己同一性を保つための重要なインフラとして機能した。可視化が進んだ現代においても、発展場は単なるレガシー空間ではなく、現役のサブカル・コミュニティ装置として機能し続けている。
関連項目
最終更新
参考文献
- 『Queer Japan from the Pacific War to the Internet Age』 Rowman & Littlefield (2005)
- 『新宿二丁目―『私たちの街』の社会学』 ポット出版 (2004)
- 『ゲイ・スタディーズ』 青土社 (1997)
- 『薔薇族』 第二書房 (1971-2008) — 発展場情報・ハッテン場ガイドの掲載媒体
- 『Tearoom Trade: Impersonal Sex in Public Places』 Aldine Publishing (1970) — 公衆便所での匿名同性愛接触の社会学的研究
別名
- 発展場
- ハッテン場
- cruising spot
- cruising culture
- gay cruising