正月の二日目、雨戸を開けると松の内の冷たい空気が入ってきて、屠蘇の徳利が片付けられたばかりの座敷で、夫婦が改めて一年の最初を迎える。茶碗を片付ける手が止まり、目線が交わり、年越しの慌ただしさで素通りした行為を、改めて新年の始まりの儀礼として行う。江戸期の暦本に「姫始」の文字が朱で印刷され、それを家庭の主婦が指でなぞっていたという、紙の上の記号と寝室の行為が結びつく独特の風景が、この語の周辺にある。姫始め(ひめはじめ)とは、新年に行う最初の行為に「姫」を冠する暦上の風習語であり、近代以降の俗用では、新年に夫婦が初めて性交渉を行うことを指す語として広く使われている。江戸期の暦本に「姫始」「飛馬始」「姫糊始」など複数の表記で記載された語で、語源には複数の説があり、確定していない。
語源の諸説
姫始めの本来の意味については、近世の暦学者・近代の民俗学者の間で複数の説が並び、いずれが原義であるかは決着していない。代表的な説を列挙すれば次の通りである。
第一に、「姫飯始め」(ひめいいはじめ)説。姫飯(ひめいい)は柔らかく炊いた米飯のことで、年末の固い強飯(おこわ)から普通の米飯に戻して炊く始めの日を指したという解釈である。年越し用の保存食である強飯に対して、日常の柔らかい飯に戻す節目という、家政上の節目を表す語であったとされる。
第二に、「姫糊始め」(ひめのりはじめ)説。姫糊は米を煮詰めて作る糊のことで、正月明けに洗濯・裁縫を再開する際に糊を使い始める日とする。家事の再開という生活実用上の節目を表す。
第三に、「飛馬始め」(ひめはじめ)説。飛馬は乗馬の意で、新年に騎馬の稽古を始める武家の年中行事を指したという。武家社会の慣行に由来するとする説である。
第四に、「姫事始め」(ひめごとはじめ)説。秘め事、すなわち夫婦の閨房を新年の初めに改めて行うことを指したという、現代の俗用に直結する解釈である。
これらのうち、暦本に記された江戸期の本来の用法はおそらく第一(姫飯始め)または第二(姫糊始め)であったとされるが、字面の音通から「秘め事始め」と読み替える俗解が江戸期から行われており、近代以降に俗解の方が定着した、という整理が民俗学的には主流の見方である。
暦本における記載
江戸期から明治期にかけて家庭で広く用いられた暦本には、月日と並んで「鏡開き」「七草」「節分」などの年中行事が記載された。姫始めもこの種の項目の一つとして、正月二日や三日の欄に印字される慣習があった。寺島良安編『和漢三才図会』(一七一二年刊)、近世各種の伊勢暦・大経師暦などで「姫始」の文字が確認できる。記載は短く、内容説明なしに日付だけが付されていることが多く、当時の読み手は文脈で意味を補ったとされる。
俗解が広まった一因は、この暦本の表記の素っ気なさにあったと考えられる。意味が明示されないため、家ごと・地域ごとに異なる解釈が並行し、結果として俗解の解釈が江戸後期から明治期にかけて優勢になっていった。
江戸後期から近代の俗用
江戸後期から、川柳・狂歌・春画の題材として「姫始め」を性的意味で扱う作例が増えた。春画の画題として年初の閨房を描く一連の作品があり、たとえば歌川国貞・喜多川歌麿の系譜で正月の閨房を題材とした作例が確認できる。これらの作品は、正月の屠蘇・松飾り・羽根突きといった年始の景物と寝所の景を結びつけて描き、「年中行事としての性愛」という視点を提示した。
近代以降は、川柳・小咄の題材としての姫始めの言及がさらに増え、暦本の文字としての姫始めと、俗用としての姫始めが事実上分離した。一九七〇年代以降の年中行事系の解説書では、姫始めの本来の意味を解説しつつ、現代では性的意味で用いられることが多い、という両義的な扱いが標準化している。
現代における位置
現代日本では、暦本の正月欄に「姫始め」が印字されることはほぼなくなり、語の使用は俗用に限定されている。年初に一年の最初の性交渉を意識する慣習自体は、特段の儀礼的な手続きを伴わない私的なものとして、夫婦間・恋人間の暗黙の話題として存続している。広告コピーやコラム記事の見出しなどで、新年最初の意の比喩として「○○姫始め」(初詣姫始め、酒姫始め、執筆姫始め、など)の形で軽く使われる例も見られる。
性に関わる年中行事という見方では、姫始めはハレの日の性愛と日常の性愛を区別する暦の感覚と結びつく。正月という非日常の中で改めて行為を意識化することが、慣れた関係の中に節目を入れる装置として機能する。これは正月文化の一部として、江戸期の年中行事感覚に由来する民俗的な節目意識の一つの現れと位置付けられる。
隣接概念
新年に関わる性的慣習語としては、姫始めのほかに「初夜」(婚礼初夜の意のほか、年初の意でも稀に使う)、「夜這い」(地域によっては正月の若衆行事と結び付く例があった)などが指摘される。年中行事の中に性愛を組み込む発想は、農耕儀礼・予祝儀礼の系譜とも接続するが、姫始めに限れば暦本の記載に由来する近世以降の家庭内の語として位置付ける方が穏当である。
「事始め」「乗り始め」「書き始め」など、新年の最初の行為に「○○始め」を冠する語形は江戸期に多数存在し、姫始めもその系列の一語である。現代では性的意味のみが残ったが、本来は他の「始め」と同列の暦語の一つであった。
関連項目
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参考文献
- 『日本年中行事辞典』 角川書店 (1977) — 姫始の項に複数語源説の整理あり
- 『和漢三才図会』 (原本一七一二年刊) (1712) — 江戸期暦本における姫始の記載例
- 『江戸の性風俗 笑いと情死のエロス』 講談社 (2002)
- 『性の用語集』 講談社 (2004)
別名
- 飛馬始
- 姫糊始
- 飛馬乗初
- 媛始
- 初姫