性科学(セクソロジー, sexology)とは、人間の性行動・性的指向・性機能・性的発達・性的多様性などを学術的に研究する学際的な学問領域である。19世紀後半にヨーロッパで誕生し、20世紀を通じて医学・心理学・社会学・人類学などと交差しながら発展してきた。
近代性科学の誕生:19世紀末ヨーロッパ
近代性科学の出発点として最も重要なのは、ドイツの精神科医リヒャルト・フォン・クラフト=エビングの主著「性的精神病理」(Psychopathia Sexualis, 1886)である。この著作は多様な「性的倒錯」の症例を体系的に記述した最初の大規模研究であり、フェティシズム・マゾヒズム・サディズム・同性愛などの用語を定義・普及させた。クラフト=エビングのアプローチは主として「病理」の記述を目的としており、当時の規範的な性観を強化する側面があった。
イギリスの医師ハヴロック・エリスは「性の心理学研究」(1897〜1928)を著し、同性愛・女性の性的反応・性的倒錯をより中立的・学術的に扱った。エリスは同性愛を先天的な自然変異とし、犯罪・道徳的堕落ではないという立場を取った点で当時の主流からの逸脱を示した。
フロイトと精神分析
ジークムント・フロイト(1856〜1939)は「性欲論三篇」(1905)で、幼児性欲・リビドー・多様な性的発達段階という概念を提示した。フロイトの理論は「性欲が人間行動の根本的な動機となる」という主張によって文化的に大きなインパクトを持ったが、その多くは後の実証的研究では支持されなかった。フロイトの学術的遺産は複雑な評価を受け続けている。
アメリカ:キンゼイ報告
アルフレッド・キンゼイ(1894〜1956)は動物学者から性科学者に転じ、1940年代に数千人のアメリカ人に対する大規模な性行動調査を実施した。「男性の性行動」(1948)・「女性の性行動」(1953)として発表されたキンゼイ報告は、同性愛経験・婚外性交・マスターベーション頻度など当時タブーとされていた行動の普及率を統計的に示し、センセーションを巻き起こした。
キンゼイが提案した「キンゼイスケール」(0=完全異性愛〜6=完全同性愛の7段階)は、性的指向が二項対立ではなく連続スペクトルとして存在するという概念を普及させた。
マスターズ&ジョンソンと性反応研究
ウィリアム・マスターズとヴァージニア・ジョンソン(共著「人間の性反応」1966・「人間の性的不全」1970)は、性行為中の生理的反応を実験室で直接観察・測定した最初の体系的研究を発表した。「興奮期→高原期→絶頂期→解消期」という性反応の四段階モデルは現代の性科学の基礎的知識として定着している。
現代の性科学
現代の性科学は神経科学・遺伝学・進化生物学・社会学・文化人類学などとの協働が進み、fMRI等の脳画像研究が性的反応・性的指向の神経基盤解明に使われている。DSMの改訂(同性愛の非病理化1973・パラフィリアと障害の区別2013)は性科学の知見が社会的・医学的実践に与えた影響の典型例である。
日本では明治〜大正期に「性欲学」として欧米の性科学が翻訳・受容され、「変態性欲」「性的倒錯」という概念が普及した。日本独自の性科学的探求としては、澤田順次郎「変態性欲考」(1913)などが知られる。
最終更新
別名
- 性科学史
- sexology history
- 性医学の歴史