本能寺、1582 年 6 月 2 日未明。明智光秀の軍勢が囲む御殿の奥で、信長は最後まで戦った。傍らに侍り、共に倒れた小姓のひとりが森蘭丸である。当時 17 歳。9 歳から信長に仕え、寝所に侍り、機密を扱う近侍として絶大な信を得ていた。武将と小姓の関係は単なる主従ではなく、衆道の絆を基底に置く濃密な人格的結合だった。戦国武将の性は、合戦と政略結婚の合間に営まれる息抜きではなく、家臣団編制と権力構造の中核を成す制度として、戦国の世を貫いていた。
戦国時代の性文化(せんごくじだいのせいぶんか)とは、応仁の乱(1467)から関ヶ原合戦(1600)に至る約 130 年間の日本における武家社会の性をめぐる慣行・規範・実践を指す。本項では武将の衆道文化、陣中の小姓制度、政略結婚、戦時下の性的暴力、宣教師から見た日本の性文化を扱う。
武将の衆道文化
戦国時代の武家社会において、衆道(男色)は広く制度化された慣行だった。寺院の稚児文化が中世武家文化に流入し、武将と若い小姓・近習との間の性的関係を含む濃密な関係性が、家臣団編制の中核に組み込まれた。
代表的な事例は織田信長(1534-1582)と森蘭丸(1565-1582)、武田信玄(1521-1573)と高坂昌信(1527-1578)、徳川家康(1542-1616)と井伊直政(1561-1602)、上杉謙信(1530-1578)とその近習団、伊達政宗(1567-1636)と片倉重綱らである。武田信玄が小姓の高坂昌信に宛てた誓詞(1546 年「於やくしの泉ニ而申候、申候」起請文)は、戦国武将の同性愛関係を実証する一級史料として頻繁に引用される。
衆道は「義」の絆として理念化され、戦場での盟約・忠義の根拠となった。井原西鶴『男色大鑑』(1687)は、戦国武将と小姓の関係を題材とする説話を多数収め、戦国期から近世初期に至る武家衆道文化の連続性を示す。
小姓制度
戦国大名の身辺に侍る「小姓」(こしょう)は、武家の子弟を 8-15 歳で家中に出仕させ、武芸・教養・行儀作法を学ばせる制度である。小姓は寝所近くに侍り、主君の身辺警護・伝令・取次・家政を担い、しばしば寝所での性的奉仕も担った。
小姓を経て成人した者は、近習・側近として家中の中枢に位置づけられ、家老・宿老へ昇進する経路の中核となった。森蘭丸の織田家中での地位、高坂昌信の武田家四天王としての位置、井伊直政の徳川四天王としての位置などは、この小姓 → 重臣ルートの典型である。
小姓制度は単純な性的搾取ではなく、家臣団の中堅幹部養成機構として機能した。年少時の主君との濃密な関係が、成人後の絶対的忠誠の基盤となり、戦国大名は信頼できる中核家臣をこの経路で確保した。
政略結婚
戦国期の女性、とりわけ大名の娘・姉妹・後家は、政略結婚の駒として駆使された。北条氏康の娘たちが武田・今川・上杉に嫁いだ事例、織田信長の妹お市が浅井長政・柴田勝家に嫁いだ事例、豊臣秀吉の側室淀殿(浅井長政の娘)の事例など、女性の婚姻が大名間外交の中核を成した。
政略結婚で他家に嫁いだ女性は、嫁ぎ先の家中で実家の利益を代弁する「政治的アクター」として機能した。山内一豊室の千代、明智光秀の娘細川ガラシャ、北条氏康の娘早川殿などは、書状を通じて実家・嫁家両家の動向を絶えず媒介する政治主体として記録に登場する。
戦国期の大名・上級武家には側室制が普遍に見られた。徳川家康は正室を含めて 19 人前後の妻妾を持ち、12 男 5 女を儲けたと記録される。豊臣秀吉、伊達政宗、毛利輝元なども多数の側室を抱え、男子を多数儲けることが家の存続戦略の中核となった。
陣中の性
戦地に赴く武将は、小姓・近習を伴って陣中に置いた。寝所での性的接触は陣中の慣行であり、各種軍記物・覚書に断片的記述が残る。一方で、合戦地周辺での野戦女郎・乱取り(略奪)・捕虜女性への性的暴行などの戦時暴力も、戦国期の戦場の負の側面として史料に記録される。
『信長公記』『甲陽軍鑑』などの軍記物は、戦勝後の城下での「乱取り」に関する記述を含む。攻略した城・町から金品とともに女子供を「人取り」する行為は、戦国の合戦に随伴する慣行として記録される。豊臣秀吉の九州征伐(1587)後の「博多奪還」、関白政権下での「人取り禁止令」など、政権側がこの種の戦時暴力を抑制する試みは存在したが、実態の根絶には至らなかった。
本項は戦時の性的暴力を歴史的事実として記述するが、これを正当化する立場は取らない。
宣教師の見聞
16 世紀後半、フランシスコ・ザビエル(1549 年来日)を皮切りにイエズス会宣教師が日本各地で活動し、彼らが本国に送った報告書は戦国期日本社会の重要な史料となった。ザビエル『書簡集』(1551 年)、ルイス・フロイス『日本史』(1583-1597 年執筆)、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ『日本巡察記』などには、日本の風習・倫理観への驚きが頻繁に記録される。
フロイスは、日本の僧侶・武士の男色慣行を「ソドミの罪」として強く非難する記述を残し、これが日本の性風習をヨーロッパに紹介する初期史料となった。ヴァリニャーノは、戦国期日本の女性の地位、夫婦関係、離婚の容易さなどを欧州の事例と対比して記述し、両世界の性文化の差異を浮き彫りにした。
宣教師の記述は、外部観察者の視点という限界を持ちつつも、内部史料が乏しい戦国期日常生活の性文化を補完する貴重な比較資料を提供している。
江戸期への接続
関ヶ原合戦(1600)から大坂夏の陣(1615)を経て徳川幕藩体制が確立する過程で、戦国期の流動的・暴力的性文化は急速に再編された。武家衆道は江戸期の「武士道」の一部として様式化され、政略結婚は幕藩制下の「縁組規制」(武家諸法度第 7 条)で幕府の統制下に置かれ、戦地の性的暴力は平時化に伴って解消された。
戦国期 130 年の流動性が江戸期 260 年の固定的秩序へと移行する過程は、日本の性文化史における大規模な構造転換のひとつとして、近世史研究で繰り返し主題化されてきた。
関連項目
最終更新
参考文献
- 『信長公記』 (1610年頃)
- 『甲陽軍鑑』 (1640年頃)
- 『戦国武将と男色』 ベストセラーズ (1995)
- 『男色の日本史』 作品社 (2014)
別名
- 戦国時代の性
- 戦国期性文化
- Sengoku sexuality