紀元前 5 世紀のアテナイ、夜の宴席にひとりの少年が現れる。30 歳前後の市民男性が酒を注ぎ、年下の少年に詩を諳んじてみせる。哲学を語り、政治を語り、やがて寝床を共にする。教師と弟子であり、恋人であり、市民共同体の次世代育成装置でもあるこの関係は、ギリシャ語で「パイデラスティア」と呼ばれた。古代ギリシャ世界において、成人男性と少年の恋愛関係は社会的に承認された制度であり、文学・哲学・美術の中心的主題のひとつだった。
古代ギリシャの性文化(こだいぎりしゃのせいぶんか、Sexuality in ancient Greece)とは、紀元前 8 世紀のホメロス時代から紀元前 4 世紀末のヘレニズム時代に至る古代ギリシャ世界の性をめぐる慣行・制度・規範の総体である。本項ではパイデラスティア(少年愛)、高級娼婦ヘタイラ、シンポジウム文化、性的規範の階層構造を扱う。
パイデラスティア(παιδεραστία)
パイデラスティアは、成人市民男性(erastēs、愛する者)と思春期の少年(erōmenos、愛される者)の間に成立する恋愛・教育的関係を指す。アテナイ・スパルタ・テーバイなど多くの都市国家で制度化され、紀元前 6 世紀から前 4 世紀にかけて文学・哲学の主題として繰り返し描かれた。
関係の典型は次のように進行する。30 歳前後の成人男性が、12 歳から 18 歳ほどの少年を選び、贈り物・教育・社会的庇護を提供する。少年側はこれを受け入れるか拒むかの自由を持ち、受け入れた場合は性的関係を含む親密な交流が始まる。少年が髭を蓄え始める年齢に達すると関係は解消され、かつての erōmenos は今度は自らが erastēs となって次世代の少年を選ぶ。
プラトン『饗宴』(紀元前 385 年頃)は、この関係を哲学的に理想化した古典的テクストである。ソクラテスとアルキビアデスの応酬、パウサニアスによる「天上のエロス」と「俗世のエロス」の区別など、パイデラスティアを高貴な精神的修養として位置づける議論が展開される。
ただし実態は理想とずれた部分も大きい。少年側の経済的弱者が金銭を媒介に関係に入る例、強制的な誘惑、嫉妬と暴力の挿話など、現代の同意・年齢規範から見れば問題視される側面が史料に多数記録される。本項は古代の制度を現代の倫理で全面的に正当化する立場を取らない。
高級娼婦ヘタイラ(ἑταίρα)
ギリシャ語で「女性の同伴者」を意味する hetaira(ヘタイラ、複数形 hetairai)は、市民男性の宴席に侍り、対話・音楽・詩・性を提供した高級娼婦を指す。一般の街娼(pornē)とは明確に区別され、上流階級の市民男性と長期的な関係を結ぶ高度な教養を備えた女性たちだった。
ペリクレス時代のアスパシア(ミレトス出身、紀元前 5 世紀)は政治家ペリクレスの愛人として知られ、ソクラテスら哲学者と対等に弁論したと伝えられる。プラトン『メネクセノス』には彼女の弁舌の引用が残る。後 4 世紀のフリュネは弁論家ヒュペレイデスの恋人として、また彫刻家プラクシテレスの『クニドスのアプロディテ』のモデルとして名を残した。
ヘタイラは市民の正妻と異なる役割を担った。アテナイの市民の妻は家内に閉じ込められ、宴席に出ることはなく、夫の知的会話の相手にはならなかった。市民男性が知性ある女性と交流する場は、もっぱらヘタイラの宴席だった。
シンポジウム(συμπόσιον)
シンポジウム(symposion、共飲の意)は、古代ギリシャの市民男性が私邸の食堂(andrōn)に集い、酒を飲みながら詩を吟じ、哲学を語り、ヘタイラや少年と戯れた社交儀礼である。プラトンの対話篇の舞台、クセノフォン『饗宴』の主題など、古典哲学・文学の重要な舞台装置として登場する。
シンポジウムには厳格な作法があった。参加者は寝椅子(klinē)に横臥し、専任の「酒宴の長」(symposiarchos)が酒の希釈比率を定めた。少年が給仕し、ヘタイラやアウロス奏者(aulētris)が音楽と性的興奮を提供した。酒杯を回すコッタボス遊戯、即興詩の交換など、知的・身体的な遊戯が複層的に組み込まれていた。
性的規範の階層構造
古代ギリシャの性規範は、現代の異性愛・同性愛の二分法とは異なる枠組で機能した。ミシェル・フーコー『性の歴史』第二巻は、ギリシャ人にとって重要だったのは「能動/受動」の役割であり、相手の性別ではなかった、と論じる。
成人市民男性は能動的役割を取ることが望ましいとされ、女性・少年・奴隷・外国人を受動側に置くことは社会的に容認された。一方、市民男性が他の成人市民男性に受動的役割を取ること、あるいは金銭のために身体を提供することは、市民権を毀損する行為として軽蔑され、アテナイでは公民権剥奪の対象にもなった。
古代ローマの性文化もこの「能動/受動」枠組を継承したが、パイデラスティアのような制度的少年愛はローマでは展開せず、奴隷制下の性的処分権を中心とする別の構造に置き換わった。
関連項目
最終更新
参考文献
- 『Greek Homosexuality』 Harvard University Press (1978)
- 『The Use of Pleasure (History of Sexuality, Vol. 2)』 Pantheon Books (1985)
- 『Courtesans and Fishcakes: The Consuming Passions of Classical Athens』 St. Martin's Press (1998)
- 『饗宴』 (前385年頃)
- 『古代ギリシアの女たち』 中央公論社 (1992)
別名
- 古代ギリシャ性文化
- 古代ギリシア
- Sexuality in ancient Greece
- Pederasty
- Hetaira